昭和46年10月16日 朝の御理解
御理解 第100節
「めでためでたの若松さまよ枝も栄える葉も茂ると言うではないか。金光大神は子孫繁盛家繁昌の道を教えるのじゃ。」
家繁昌子孫繁昌の道を教えるのじゃ、教祖の教えのすべてが結集されて、そこに答えは何が出てくるかと言うと、この御理解百節だと思うですね、枝も栄える葉も繁る様なおかげになり、しかもそれが子孫にまで続き、家繁昌に続き、そこに天地の親神様の御喜びが有る訳であります、そう言うおかげを頂かして貰う、ために教祖の御教えのすべてがあると言うても良い訳です。
そこで御教えを下さってある総べてを体得するとか、それを行じなければこう言うおかげにならないかと言うとそうでもない、無学で人が助からんと言う事はないと、九十節で仰っとられます様に、無学でも人が助かると、と言う事は無学でも自分自身が助かる事が出来ると言う事である。昨日御本部から求めて参りました御本の中に「神が道をひらく」と言う新居、新しい居と書いてある、新しい教会ですけども私は初めて聞きました、初めてそう言う話しは教徒社から出されているのも不思議な位であると思います。
非常にこの霊徳に御神徳と書かれてありますけども、私にすれば霊徳だと思うのです、けれどもいろいろ神様からお知らせを受けられたり、御霊様とお話合いができたりまあ千里眼的な事がわかられたり、する様な徳を受けられた御婦人の先生のお話が出ております、もう亡くなっておられません、それをまあその教えを受けられた先生が書かれたものでございます、もう全然無学の方なんですね。
それに一生腹を立てないとか、不平不足をいわない事だけに焦点置いて、しかもそれが自分が腹を立てないとか、又は不平不足を言わない事とかをです、自分でいつも試しておられる、ですからいつも厳しいところえ厳しいところえと、はいって行って例えば二十一歳で結婚しとられますが、余りに家が大変難しい家であるし、お父さんがその縁談をはじめから断わっておられた。
何人行ってもその家には嫁は居つかないと言う程しに、難しいお家であると言うところから、お父さんが断わっておられるのを自分からいろいろ考えられて、現在自分が不平とか不足とか、又は腹を立てないと言うのは自分の家の環境がよいから、そうであろう、そう言う言わば環境の悪いところに行っても自分の腹を立てんで済むとか、不平不足を言わんで済む様な、おかげが頂けるだろうか。
自分のこうしておる事は本当のものであろうかと、言う事を確かめるために結婚なさっておられると言う様な変わった方なんである、それは成程行って見られたところが話しにまさる大変な御主人も、お母さんも大変なきびしい方で、御自身はその脳病持ちであるし、その脳病持ちの御主人が信心に依っておかげを頂いて、終いには御主人が教師の資格を取られる様になり、お母さんはそう言うやかましい、お母さんだけれども家の嫁は日本一の嫁だと言うて歩かれる程に。
お母さんが帰依されると言う様なおかげを受けておられるですね、ですから本気で腹を立てんと言う修行をしただけでもです、金光様の御信心は所謂子孫繁昌家繁昌の道に出られるのですよね、祝詞の本を見られても字が分らないから、南無有難や南無有難やと言うて拝みよんなさったそうです。そしたら神様からこの方は仏じゃないから、南無はいらん只有り難や有り難やで、その方の大祓いと同じ様に神は受け取ると言う様な意味の事を仰ったそうであります。
だからそこの信者は皆外の祝詞はいわない、只有難や有難やただ有難や有難やと言うて拝む。恐らく有難やと言う歌があったんですよね、あれは金光様の信者のヒントを得たと昔流行り立ちに聞かせて頂いたのですけれども、そう言うところで信心の稽古をした人が歌の元になったのかも知れませんね、いわゆる有難や有難やとおがまれると言うのですから、たったそれだけです、有難や有難やだからそこに信心の稽古をする者も、矢張り有難や有難や、だからこの神様は、又その方が言われておりますがね。
信心はしょうと思えばどこからでも出来ると、どう言う中からでも出来ると、仕様とおもはんから出来んのだと言う事を言っておられますですね。家の屋敷の隅の方に竹の筒を差しこんであってその中に、お初穂やら賽銭やらは入れて家の者は信心がないからね、拝みござった。御神飯やら御飯を炊かれると釜の中でこれを神様と言うてから、釜の中で御神飯を横によけられただけで、神様は御神飯として受け御座った。
ですから信心は仕様と思えばどう言う事でもどこからでも出来る、と言う事を言っておられます、だからそこら辺のところが実を言うたら大変難しい訳ですね、ああそんならもう拝む事もいらんたい、御理解頂く事もいらんたい、只有難や有難や言うときゃよかたい、だけではいけん、なら今日は御神飯有るばってん、御飯が出来とるけんすぐ横によけといて、金光様と言うてそれを受けて下さるなら、と言うてからその辺のところは、大変やはり難しいところですから、頂き違えん様にせねばいけん訳ですよね。
けども自分の一心がそこに向けられる時に神様が有難やで、般若心経を上げんでも、大祓いを上げんでも、それがもうお経の代わりであり大祓いの代わりとして神様が受けておられると、だからここんところの御理解百節を頂くに当たりましても、本当言うたら教祖のみ教えを本当に体得さして貰って、教祖様のみ教えを身を以て生活の上に表して行くと言う事、しかもそれを広く深く、わからして貰って矢張り広く深い信心に入って行かねばならんのです。
新たな御理解が発表されております、その教祖金光大神の御理解の中にそれとよく似たそれとは意味が違いましょうけれども、おなじ様な御理解があります、読んで見ましょう、秋の忙しい時など女に至る迄、足を汚しておるので御飯を神様に上げませねばと思い、よだって上げるのは神は喜ばんと仰っておられる、もうね秋の取り入れと言うたらその当時は皆裸足で、朝御飯を炊いたらそれでも御神飯を上げんならんと思うて、御神飯をついで膝で歩いて行くと言うこと。
よだってそして神様へ御神飯をお供えすると、それは神は喜ばん、それよりも釜の中で少少かきまぜて、神様と拝んでそれをよくまぜて頂けい、神はそれを喜ぶとこう言うておられます、それは別に神様と言うただけで良いと仰っとられます、こうこうまぜろと、そしてそれを上げろとも仰っておられません、それを頂けとこう仰っとられます、神様とこう思うただけで良いと。
次ぎを読んで行く内に金光教の信心が成程人間、私どもの頂かねばならない信心だなと言うことが良くわかります、大祓いを上げいでもよい、朝は今日も家内一統おかげをおやり下さりませ、お繰り合わせを願いますと申して御拝をし、晩には今日も家内一統おかげを下さいまして有り難う御座いますと言うて、御礼申せと、大祓いの三巻四巻を上げておると、仕事の邪魔になってはならぬ、と言う程しに仕事と言う事を強調しとられます、仕事をすると言う事、そこにですね。
今日の御理解の言わば家繁昌、子孫繁盛の道の入口がある訳です、これは入口ですよ、それでも忙しい、忙しいと言うて、いそがしいにかまけてしまって、例えば御神飯も上げない拝みもしないと言う事じゃない、けども御神飯を上げると言う事はこの様に容易い事だと、釜をかきまぜるだけ、そのときに金光様金光様と言うたらよいと、そしてそれをそのまま頂けとこう言われる。
忙しいもうちょっと忙しいか、神様の御守りもせんならん、あれもせんならんこれもせんならんと言う気持ちで、わざわざ御神飯をよだって上げる様では神は喜ばんと、それがせからしい様な事であっては、朝今日もどうぞ家内一統御無事でお繰り合わせ下さりませいと願えと、そして夜には今日もおかげ頂きまして、有り難う御座いますと言うなら、心からなる御礼の、やはり私が頂いている、み教えの中にあります。
朝の清々しさ、昼の忙しさ、夜の有りがたさ、こう言う日々でなからなければいけない、朝目をさますところから、神様おかげでお目覚しのおかげ頂きました、と今日も取り入れで忙しゅう御座いますと、どうぞ家内一同御用に御使いまわし下さいとお願いする。御神飯もそこそこにですけれども、もう出来上がった時にかきまぜながら、神様神様と言うて、もうその御神飯を神様にお供えしたら、もうそのお釜全部が御神飯だと言う感じですね、それを頂けいとこう言うとられます。
まあ昼の忙しさ、いわゆる一生懸命働けと言う事なんである、そして夜の有難さと言うものがなからねばいかん、只もうちょいちょいともう今日も。おかげ頂いて有り難う御座いましたと、此処では書いてありますけども、それだけではいかんのです、いわゆる有難さと言うものが伴っていないから、もう思えば思う程今日一日お使いまわし頂いた具合といい何と言い、本当に神様のおかげを頂かなければ出来ることではない程しの、忙しさの中におかげを頂いて。
今日も家内一統無事におかげを頂いて、有り難う御座いましたと言う、とこですね、信心は容易いものじゃと仰ったのは、こう言うところも信心は容易いものじゃと言うところが出来るのじゃないでしょうかね。只忙しいもなければ何もないのに、もう起きらにゃならん時間にやっとかっと、起きてしかも今どきは電気釜ですから、寝ながらちょっとスイッチを入れといて、そして起きてさあ御飯食べる時に、こうかきまざながら神様神様といったんじゃ、いっちょうも通じん訳ですから。
この辺が言うなら間違えちゃならん所です、昼は仕事の方は四だ五だにしておいてから、いかに夜有難そうにああ今日も有り難う御座いますと言うても、これは通用しないと言う事なんです、私は金光様の御信心はね、確かにこれだと思うですね、その事を私は神様に今日はこの新しい御理解を先に頂きました、そしていま私が読ませて頂いた所を頂きましたから、経典の方はどこを頂いたらよかろうかと思うたら、百節を頂きました。けれどもこれはいつも百節を頂きますと、大変難しいのですよね。
家繁昌子孫繁昌の道を教える、金光大神はそう言う道を教えられるのですから、その道をぎょうじなければ、そこに出られないのですけれども、そしたら神様から自転車に乗る稽古をしよるところを御心眼に頂きました、皆さん自転車に乗れる人がほとんどでしょうけれどね、あれは初めから乗りきる者は居りませんよね、私だん子供の時に乗り習いましたけどもね、それこそ母が二十と言う小さい自転車、それから二十二、二十四と言う様に段々大きくなって。
買っていって呉れましたから、楽でしたけれどもそれでも矢張り倒れ転びしながら、足すりむいたりしてようやくのり習った訳です、それを近所の子供達は、私の友達は皆お父さんの二十八と言う様なのがありましたよね、もうほとんどあの時分は二十八しか無かったですもの、間に二十六と言うのもいっちょあった、その二十八に乗って中から足を入れて、ころころしながら稽古をしたもんですよね、それでもやっぱり一生懸命稽古をしなければ出来るものじゃ、乗れるものじゃないです。
自転車位と思うけれども矢張り稽古しなければ乗り習わない。今日私が頂きましたのは自転車に乗る稽古を言わば倒れ転びしながら、稽古をしているところでした、だから今日の御理解はそう言う程度の意味に於いての、御理解と思うて下さらなければいけません、家繁昌子孫繁昌のおかげを頂くと言うそう言うならば入口のところ、自転車と言うのは自分で踏むと言う事、まあ言うならそこに我力も入って参りましょうね私が、だから自転車に乗るでも矢張り稽古をしなければならないと言う事。
今日ね金光様の御信心と言うのは、忙しいから参らんでもよか、もう御神飯でもなんでも、御飯が出来上がった時に、金光さま金光様とかきまぜりゃもうそれで御神飯で受け取って下さる、ああもうお参りせんで、今日は取り入れだから家族中で元気で取り入れの方を一生懸命さして貰うのが信心だと、所謂家業の行と仰る、そして一日終わらせて頂いたら今日もおかげを頂いて、一同のものがお使いまわし頂いて有り難う御座いましたと、お礼申し上げればそれで良いと言う。そんなに容易い事なのです。
言うならそう言う事に依って、信心のいうなら自転車に乗せて頂く稽古をまずさせて貰う、成程いつも心を神様に向けておくと言う事、それには矢張りさあ今日は取り入れだと言うのに、八時までも九時までも寝とる事じゃ出来んと言う事、いつもよりも矢張り働かなけりゃならん、それには矢張りもうそれこそ、四時五時に起きて家の周りをさせて貰うから、さあ田圃に出ると、それも只そうして出るだけじゃない、只御飯食べて外へ出て一生懸命働いて帰って来るだけじゃない、その中に信心を教えておられます。
もう朝起きて御飯を炊く時から、金光様、金光様である、御神飯器に移すのではないのだけれども、かきまぜながら、神様神様と言うと清々しい心を此処では求めておられる、そして昼の忙しさ、もうそれこそ取り入れのごとあると、言うですからね忙しい時には、だからその忙しい中にです、もう一生懸命に働け、成程これなら繁昌するだろうとこう言う、ね繁昌につながる訳でしょう、人がまだ寝とる間にがまだす。
人が一服しょるあいだに一生懸命やっとる、これなら人が十儲かる時には十一も十二も儲かる事になるでしょう、しかも終わってしまってさあお家に帰らせて頂いて、お風呂にでも入らせて頂いて、休ませて頂こうと言う前に、今日も一日健康でおかげを頂いて有難かったと言う事をです、しみじみ神様にお礼を申し上げる心の状態と言うものが、出来とらにゃならん、一日中だから信心が出来とらにゃならん、けれどもこれはこれはその気になっとれば容易い事なんだ。
取り上げだから忙しいから神様をわすれとる様な事じゃ出来ん ずうっと神様は働き通しに、働いてござる事を自分の五体にも心にも感じさせて貰いながらの、働きでなからなければならないと言う事を教えておられます。そう言う稽古こそがです、今日私が頂いた自転車乗りの稽古じゃないかと思います、ああ今日は忘れとったと言う事も有るでしょう、御飯を炊いたけれども、掻ぎまぜる時に、神様神様と言うのを忘れとったと言うこともあるでしょう。
晩にお礼を申そう申そうと思うても、心から本当に今日一日が皆で働かして頂いた事を、お礼申し上げても実感として有難いものが湧いてこん事もあるでしょう、けれどもそこんところをいわゆる繰り返し、繰り返し稽古をさせて頂きよる内に、神様の方がこちらの方へぴたっと付いてくださる、そしていわゆる朝の清々しさ、昼の忙しさ夜の有難さと言うものがそのしみじみと、明日の朝の目覚しの上にまで響いてくる、不安がない心配がない、只有難い一念で寝むのですから。
そう言う事が出来る様になる事がですね、まず金光様の信心の初めじゃなければならん言うならば、自転車に乗り習う稽古と言う事になる、倒れることもあろう転ぶこともあろう、けれどもそれを繰り返さして頂くと言うところに、それが自分のものになる、自転車に乗り習う、自転車にのり習った時の嬉しさね、もうお使いはなかのとこちらから言おうごとある、まあどこどこにちょいと私どもはよう、油買いにやら砂糖買いにやら、やらせられましたけど、それが楽しい。
だから自転車に乗り習っててもそんなに楽しい、例えて言うなら今日容易いとこう言われる、今日新しい金光大神に出て来る様にです、それこそ御神飯器に御神飯も盛らない、足も洗わない、いうなら一生懸命働けと言う意味の中にも、今日私が申します様な内容がしみじみとこもっておらなければ、いけないのです、それが信心生活であり、それが金光様の御信心させて頂く者の生活の姿でなければならぬ。
人よりも少し早く起きよう、人よりは少しは余計に働かして貰おう、教祖様等はそれこそ神仏にお参りされるための、御賽銭をかせがれるために、人が一回しか行かん松葉掻きに二回行っておられるです、そして一回分だけはお家に上げられてそして一回分を神様参りの旅費とかお賽銭に使っておられる、成程身体はちびるものじゃないからよう働けと仰る、み教えもあります様に、働く事の有難さ忙しさの有難さ、朝の目ざめの清々しさ有難さ、夜はそれがなお一層しみじみと有難い。
と言うそう言う環境と言うものが、私どもの信心生活の中に、家の中に出来て来るところのおかげを頂く事がまず基本になる、そこまで頂きならうと言う事だけでも、矢張り倒れ転びがあると言う事、自転車乗りと同じ事、自転車に乗りならえば容易いものだ、けれども矢張り倒れ転びがあって始めて、自転車に乗り習う、自分で踏んでそこまで行くでも歩いて行きよったが、相当時間がかかりよったが自転車で行く様になったら、それが楽しく早く行って帰ってこれると言う程しのおかげがそこにあると言う事。
これが家繁昌子孫繁昌の道を教えると仰る、その一番初めの所であります、此処を頂かずして、今合楽で頂いている様に、信心とはお徳を受ける事だと言う様な所を一遍に分かろうと言ったって分らん、ここんところが一遍踏まえられてここんところが、出来てからの私はおかげでなからんと思う、それから又オートバイに乗り習うもよかろう、自動車にも乗り習うがよかろう、それから先にです、それこそ神様より先に御神飯、例えば此処の様にですもう三時半にはちゃんと御神飯が整えられて上げられる。
もう今日は大祭じゃけん忙しいかけんで、もう掻き混ぜ、掻き混ぜそれではもう神様は許しなさらん、今日は何事で忙しいかけんで、五時頃どんお供えする事じゃ、それこそ私どもは食べる資格は、若し例えばそれがおくれたら私どもは今日は一日、断食さして頂いてでもお詫びすると言う気持ちでおります。だからそう言う処から単車に乗り習うたり、自動車に乗り習うたりと言う様なところはいわゆるもう徳の世界です。
この世は徳の船に乗って渡れと仰る様に神様のおかげで進んで行く、一つも力もいらん只ハンドルを間違えん様に行けば、自分の思うところに行けれるほどしの車にも乗り習わして頂いて、そこに本当は家繁昌、子孫繁昌の道はあるのです、だから信心は容易いものだと言うけれども、その容易い中にも有難い勿体ないがいっぱいつまって行く程しの信心、まあ言うなら家庭環境造りとでも申しましょうかね、ですから金光様の信心すれば、忙しいかればお参りもせんで良いと言う様な意味では決して無いのです。
けれども思いがあれば心があればどこからでも神様は、一心を立てておれば拝んでおれば聞いて下さる、畑の隅から、畑の隅に竹筒を植えといて、まあその当時の一銭でしょうね、一銭の御賽銭を入れられてから、拝まれたらもうもう教会に参ったも同じに神様は受けて御座る、釜の中で神様と言うて御飯を横によけて拝めば、神様は御神飯として受けてござる、そう言う中に今日言う朝の清々しさ、昼の忙しいさ、夜の有難さ。
その夜の有難さに持ち込める程しの御用の頂き振りと言うものを、信心によって頂かねばならない、これはいわゆる祝い目出たの若松様よ、枝も栄える葉も繁ると言うではないかと言う、それこそ家繁昌子孫繁昌のおかげを頂かして頂く、これが基本になるところ、基礎になるところならそれだけで、よいかと言うと、それでは言うなら自力の信心、我力の信心、自転車で踏むだけでの信心を体得されただけではいけん。
そこから日頃頂いております様に、いわゆるお徳の世界に入って行けれる信心、楽しく有難く出来て行く信心の道がそこから開けて来る訳であります、沢山信心者はおりますけれども、ここのところの基本が出来んなりに只一生懸命拝みよる、只参りよる人も沢山有ろうとおもいます、それではいけん、矢張りここんところの基礎と言うか、そう言うところを一つ信心の基礎として、そう言うおかげを頂きたい、ここのところもやはり相当信心を稽古させて頂いてからでないと、なかなか出来ない様ですね。
ここの初歩の所でも、自転車乗り習う、自分で歩いとると言うだけの信心では随分歩く事の、ああ自転車にのり習うたらよかろうとこう思う所までは、時間が掛かる様である、それから本気でいっちょ自転車に乗り習おうかと言う時に、始めて金光様の信心の家繁昌、子孫繁昌と仰るそう言う元の基礎と言うのはそこから出来てくる、家庭環境の雰囲気がそこに出来て来る。だから容易いと言うが余り容易いとまでは言われない。
けどもこうして御理解を読ませて頂いておると金光様の信心ちゃ容易いものだと言うごとあるけどね、実際行じている中に有難いものが、言わば最後にしめくくりに、今日もおかげを頂いて有り難うございますと、しみじみとお礼を申し上げられる所までの、信心と言うものは矢張り稽古だ、ちっとは膝坊主をすりむいたり、倒れたりしながらでなからなければ、頂けん所じゃないでしょうかね、容易い様で矢張り難しいと言うかね、やっぱりある意味では厳しいのです。
どうぞ。